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宮沢賢治

1896-1933年。岩手県花巻市出身。詩人・童話作家・農業指導家・教育者。
教師としての仕事や農業指導者としての仕事のかたわら、精力的な文学活動を行うが、
生前に発表された作品はそれほど多くなく、死後に評価された作家だった。

宮沢賢治 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB
青空文庫 作家別作品リスト:宮沢 賢治
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person81.html
宮沢賢治 - ウラ・アオゾラブンコ
http://uraaozora.jpn.org/miyazawa.html

宮沢賢治 目次

宮沢賢治の人物像

賢治の作品は死後に発表されたものが多く、生前に発表されたものは少ない。
特に刊行されたのは詩集の「春と修羅」、童話集の「注文の多い料理店」だけである。
生前に発表された作品について、詳しくは略歴を参照。

強者・都会への反感と妹トシの死

賢治の作品には強者・都会への反感が表現されていることが多い。
実際、「注文の多い料理店」について、賢治自身が次のように書いている。

二人の青年紳士が猟に出て路を迷い、「注文の多い料理店」にはいり、その途方もない経営者からかえって注文されていたはなし。糧に乏しい村のこどもらが、都会文明と放恣な階級とに対するやむにやまれない反感です。
宮沢賢治 『注文の多い料理店』新刊案内
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43734_17913.html

この原因としてよく指摘されるのは、裕福な商人の家に生まれた賢治が、 貧しい農民たちに対して強い贖罪の意識を持っていたことである。
また、良き理解者であった妹トシをはやくに失ったことも、 賢治の作品に陰影をもたらす原因になったとされる(トシの死の影響を直接的に受けた作品もある。略歴を参照)。

賢治と自然

この他に賢治の特長として指摘できるのが、自然との豊かな交感力である。
賢治は自然科学についてもきちんとした知識を持っていたが、科学の視点に毒されることなく、 非常に豊かな感性で自然をとらえることができる作家だった。
「銀河鉄道の夜」の冒頭部分はそのことがよく表れている。

「大きな望遠鏡で銀河をよっく調べると銀河はだいたい何でしょう」
やっぱり星だとジョバンニは思いましたが、こんどもすぐに答えることができませんでした。
先生はしばらく困ったようすでしたが、眼をカムパネルラの方へ向けて、
「ではカムパネルラさん」と名指しました。
するとあんなに元気に手をあげたカムパネルラが、やはりもじもじ立ち上がったままやはり答えができませんでした。

宮沢賢治 銀河鉄道の夜
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43737_19215.html

この冒頭部分の描写は、「銀河鉄道の夜」の後半の展開に対する複線であると同時に、銀河を単なる星の集まりと見なすことへの賢治自身の反感として理解することができる。

この他にも幼い頃から野山をかけめぐり、植物や鉱物に親しんでいた賢治の作品には、 さまざまな植物や鉱物が登場する。
特に鉱物は賢治の専門であったわけだが、賢治は鉱物をただの「石」として捉えていない。
たとえば「貝の火」では、貝の火はただのオパールではなく、力を持った宝珠として登場するのである。

仏教との関係

賢治の作品には仏教からの影響も色濃く表れている。
ここでは仏教関連のエピソードをまとめてみたい。

  • 三歳ごろには浄土真宗の経典「正信偈」「白骨の文章」を暗唱した。
  • 10歳から賢治の父が有志とともに始めた仏教講習会に参加するようになった。
  • 寄宿舎騒動をきっかけに、中学(旧制中学)時代の後半は寺に下宿。
  • 18歳の時に島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」に深い感銘を受ける。
  • 24歳の時に国柱会(法華宗系の組織。会員に北原白秋や石原完爾らがいる)に入信する。
  • 法華経を知己に配布することを遺言する。
こうした仏教との関わりは、上述した強者への反感や自然への交感とも無関係ではないだろうし、 何よりも農業指導者としての賢治の滅私的な献身に深い影響を与えたのではないかと思われる。

農業指導者としての賢治

作家としての宮沢賢治と同じくらい、農業指導者としての宮沢賢治は重要である。
1926年に教師の職を辞した宮沢賢治は「羅須地人協会」という組織を作る。
この組織は設立の翌年に警察から社会主義結社の疑いをかけられ、 ほどなく解散に追い込まれるのだが、 農業指導者として、賢治が何を考え、何を目指していたのかを知る、 よい手がかりになると思われるので、 ここで少し取り上げてみたいと思う。

賢治の設立した「羅須地人協会」は以下の活動を行っていた。

  • 羅須地人協会は白菜、馬鈴薯、トマト、花キャベツなどの農作物の栽培
  • 農学校の教え子たちとレコードコンサートや楽器の練習会を開催
  • 稲作法や基礎科学、そしてエスペラント語の講義
  • 肥料の相談
  • 農民たちに物々交換の場を提供
これらの活動内容から明かなように、賢治は羅須地人協会を通して農民の生活向上と啓蒙を行おうとしていたのである。

賢治のこうした活動を農民たちは訝しんだ目で見ていた。
多くの農民たちは賢治の活動がおぼっちゃんの気まぐれ程度にしか思わなかったのである。

結局、賢治の羅須地人協会は警察からの圧力と、農民達の不支持、賢治の体調悪化によって、
解散することになってしまうのであるが、賢治の作品が何を訴えようとしていたのかを考える上でも、
羅須地人協会の活動を知ることは極めて重要なのではないかと思う。

なお、このような社会活動を行おうとした作家は賢治だけではなかった。
武者小路実篤や有島武郎も、賢治ほど熱心であったかどうかは別として、
農村に一種のユートピアを作るべく活動しているが、どれも短期間で終わってしまっている。

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宮沢賢治の略歴

1896年(明治29年)

8月27日、岩手県稗貫郡里川口村(現・花巻市)に父:政次郎(1874年 - 1957年)と母:イチ(1877年 - 1963年)の長男として、母の実家で生まれた。戸籍の届出は1896年8月1日付けでなされている。
弟に清六(1904年 - 2001年)、妹にトシ(1898年 -1922年)、シゲ(1901年-1987年)、クニ(1907年 - 1981年)。

1903年(明治36年)7歳

4月、花巻川口尋常高等小学校に入学。

1906年(明治39年)10歳

童話に親しみ、鉱物や植物を採集し、昆虫の標本を作ったりした。
家族から「石コ賢さん」と呼ばれる。
大沢温泉での夏期仏教講習会に父と参加するようになる。

1909年(明治42年)13歳

小学校を卒業。岩手県立盛岡中学校に入学。同校の寄宿舎(自彊寮)に入った。
野山をあるいて、鉱物・植物の採集に熱中する。

1911年(明治44年)15歳

短歌の創作をはじめる(同校の先輩・石川啄木の影響? 啄木は前年に『一握の砂』を発表)。

1913年(大正2年)17歳

寄宿舎騒動で退寮。清養時(曹洞宗)に下宿(ほどなく浄土真宗の徳玄寺に下宿先を移す)。
ロシア文学に耽溺する。

1914年(大正3年)18歳

中学を卒業。鼻の手術のために岩手病院に入院(看護婦に片思い?)。
島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」に深い感銘を受ける。

1915年(大正4年)19歳

実家から進学を許され、受験勉強のために教浄寺(時宗)に下宿。
盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)に首席で入学(同校寄宿舎、自啓寮に入る)。

1916年(大正5年)20歳

特待生となる。東京・京都・奈良・愛知・仙台・福島・山形に旅行(同年「旅行紀行文」を執筆)。
短編、「家長制度」を執筆。
短歌、「灰色の岩」「旅の手帳より」を発表。

1917年(大正6年)21歳

保阪嘉内、河本義行らと同人誌「アザリア」創刊。

1918年(大正7年)22歳

親友、保阪嘉内が「アザリア」での表現がもとで退学になる(その後も賢治との親交は続く)。
高等農林学校を卒業。同校の研究生となる。
徴兵検査の結果、第ニ乙種で兵役免除となる。
この年に童話「蜘蛛となめくぢと狸」「双子の星」を書いた。
妹トシ(日本女子大学家政科に在籍中)の病気看護のために母とともに上京する。

1919年(大正8年)23歳

トシの病気が治り、家業を手伝うようになる。
妹トシが賢治の短歌七百六十二首を筆写して一冊にまとめた。
人造宝石の製造販売事業を計画するが、父の反対にあう。
短編「女」「うろこ雲」を執筆。

1920年(大正9年)24歳

盛岡高等農林学校地質学研究科を修了。助教授推薦の話を辞退。
10月国柱会に入信。
童話「貝の火」「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」「三人兄弟の医者と北守将軍」を執筆。

1921年(大正10年)25歳

父母や親友の改宗を熱望したが叶わず。
突然家族に無断で上京。国柱会本部を訪れる。
本郷菊坂町に下宿し、筆耕校正で自活しながら、街頭布教や奉仕活動を行う。
トシ病気の報せを受けて帰郷。
稗貫郡稗貫農学校(現の県立花巻農学校)の教諭となる。
短編「電車」「床屋」「図書館幻想」を執筆。
童話「かしはばやしの夜」「月夜のでんしんばしら」「鹿踊りのはじまり」「どんぐりと山猫」 「狼森と笊森、盗森」「注文の多い料理店」「鳥の北斗七星」を執筆。
また、トシの選んだ歌稿を推敲して、新作を加え、自ら清書して一冊にまとめている。
「愛国婦人1に童話『雪渡り』を発表。生前唯一の稿料(5円)を得る。

1922年(大正11年)26歳

ドイツ語、エスペラント語を独習し始める。
妹トシが25歳で死亡。激しい衝撃を受ける。
『春と修羅』収録詩篇の制作を始める。
詩「屈折率」「くらかけ山の雪」「真空溶媒」「小岩井農場」「岩手山」「高原」「原体剣舞連」 「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」「手簡」などを執筆。
童話「水仙月の四日」「山男の四月」を執筆
短編「毒蛾」「花椰菜」を執筆
農学校「精神歌」「応援歌」作詞。

1923年(大正12年)27歳

童話原稿が弟清六によって婦人画報編集部に持ち込れたが断られる。
開校記念行事として自作の「植物医師」「飢餓陣営」を上演(監督も務める)。
イギリス海岸(賢治のつけた愛称)で化石を発掘。
教え子の就職依頼のため、青森、北海道、樺太に旅行。
岩手毎日新聞に詩「東岩手山」、童話「やまなし」「氷河鼠の毛皮」「シグナルとシグナレス」を発表。 随筆「イギリス海岸」執筆。
作曲「牧歌」「イギリス海岸」「原体剣舞連」など
詩「青森挽歌」「津軽海峡」「駒ケ岳」「旭川」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」

1924年(大正13年)28歳

「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ケ原の夜」を一般上演(農学校の生徒たちと)。
花巻温泉の街路樹、花巻病院などの花壇を設計・造営。
心象スケッチ「春と修羅」を自費出版。
イーハトヴ童話「注文の多い料理店」を刊行。

1925年(大正14年)29歳

セロ、オルガンの独習を始める。
岩手詩人協会発行「貌」に詩「鳥」「過労呪禁」「過去情炎」「痘瘡(幻聴)」「ワルツ第CZ号列車」を発表。
草野心平編「銅羅」に詩を発表し始める(「負景二篇」「休息」「丘陵地」)。
「虚無思想研究」に詩「冬(幻聴)」を発表。

1926年(大正15年・昭和元年)30歳

花巻農学校でベートーヴェン百年祭を開催。
岩手県立国民高等学校講師を兼任し、「農民芸術論」の一部を講義。
花巻農学校依願退職。
下根子で独居自炊生活を始める。
荒地を開墾し畑作や花壇作りを始める。
子供の会をはじめ、レコード鑑賞会やコンサートなどを開催。
羅須地人協会設立。近隣の青年、篤農家を集め、稲作法、農化学、土壌学、植物学などを講義。
花巻町とその近郊に数箇所の無料肥料設計販売事務所を設け、田畑の相談や農村をまわっての稲作指導を開始する。
上京して、エスペラント語、オルガン、セロ、タイプライターを習う。
東京国際倶楽部に出席し、フィンランド公使ラムステットの講演に参加。ラムステットと農村問題や言語のことなどについて会話をする。
高村光太郎を訪問。
ヒューマニストとして労働農民党の岩手県での有力献金者。
「貌」に詩「雲(幻聴)」「孤独と風童」を発表。
雑誌「月曜」に童話「オツベルと象」「ざしき童子のはなし」「猫の事務所」を発表。
「銅羅」に詩「秋と負債」「永訣の朝」を発表。
「虚無思想研究」に詩「朝餐」を発表。
「農民芸術論概論」を執筆。

1927年(昭和2年)31歳

警察の聴取を受けたことから羅須地人協会の活動を停止。
花巻温泉に勤めていた教え子を通して、温泉の遊園地に自らがデザインした花壇を造成(南斜花壇、別名「つるくさ花壇」)。 詩「装景手記」「生徒諸君に寄せる」を執筆。
「銅羅」に詩「冬と銀河ステーション」「イーハトヴの氷霧」を発表。
盛岡中学校校友会雑誌に詩「奏鳴四一九」「銀河鉄道の一月」を発表。
「或る農学生の日誌」を執筆。

1928年(昭和3年)32歳

肥料設計、稲作指導に奔走。
農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄とその妹チエを訪問。
過労から病臥し、肋膜炎を発症。
「銅羅」に詩「氷質の冗談」を発表。
「聖燈」に詩「稲作挿話」を発表。
詩「高架線」「三原三部」「丸善階上喫茶室小景」「神田の夜」「自動車群夜となる」「停車場にてスヰトンを喫す」「穂孕期」「疾中」などを執筆。

1930年(昭和5年)34歳

労農党稗貫支部に謄写版と金20円をカンパ。
病床で文語詩の創作を開始する。
「文芸プラニング」に詩「空明と傷痍」「遠足許可」「住居」「栄」を発表。

1931年(昭和6年)35歳

健康やや回復し、東北破石工場の技師となる。
園芸を始め、「ダリヤ品評会」や「菊花品評会」に出品する。
東北砕石工場の技師となり、炭酸石灰の宣伝販売のため東北各地へ出張するが、 再び発熱・臥床することになり、死を覚悟して遺書を書く。
「児童文学」に童話「北守将軍と三人兄弟の医者」を発表。
手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。
文語詩「<ひとひははかなく>」「<あらたなる>」を執筆。

1932年(昭和7年)36歳

肥料の設計や炭酸石灰に関する問い合わせに親切に対応する。
高等数学を学ぶ
「岩手詩集」に詩「早春独白」を発表。
「岩手女性」に文語詩「母」「祭日」「保線工手」を発表。
「詩人時代」に詩「客を停める」を発表。
「児童文学」に童話『グスコーブドリの伝記』を発表。

1933年(昭和8年)37歳

習字を始める。
「新詩論」に詩「半蔭地選定」を発表。
「詩人時代」に詩「詩への愛憎」を発表。
「天才人」に「朝に就ての童話的構図」を発表。
「日本詩壇」に詩「移化する雲」を発表。
「岩手女性」に文語詩「選挙」「民間集」「花鳥図譜 七月」を発表。
「北方詩人」に詩「産業組合青年会」を発表。
「文語詩五十篇」「文語詩百篇」を清書。
9月21日に急性肺炎で死去。享年37。
法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。
生涯、独身であった。
死の前日遅くまで肥料の相談を受けていた。戒名は真金院三不日賢善男子。


参考文献

略歴の作成にあたって、以下の書籍・サイトを参考にしました。

『ちくま日本文学003 宮沢賢治 1896-1933』筑摩書房,2007,pp.465-477

宮沢賢治 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB
神戸宮沢賢治の会
http://www.eonet.ne.jp/~misty/kenji/

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宮沢賢治の代表作

工事中(近日公開予定)

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宮沢賢治関連情報

工事中(近日公開予定)

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外部リンク

宮沢賢治 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB
宮澤賢治の詩の世界 ( mental sketches hyperlinked )
http://www.ihatov.cc/
神戸宮沢賢治の会
http://www.eonet.ne.jp/~misty/kenji/
賢治の事務所
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/
イーハトーブ
http://nagoya.cool.ne.jp/ksc001/
宮沢賢治手帳
http://www.dekunobou.com/
「猫の事務所」調査室
http://tsumekusa.nobody.jp/index.html

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